カンボジアとタイの国境地帯で再燃した戦闘は、主要国の対応の濃淡を浮き彫りにした。すなわち、誰が動き、誰が慎重姿勢を選んだのか、という点である。米国はドナルド・トランプ大統領による「仲介」物語を通じて関与を示し、象徴的かつ取引的ではあるが、米国の関与継続を内外に示す狙いを持った。中国は「中国なりの方法」での仲介とシャトル外交に乗り出し、地域危機の管理者としての自己像を強化した。
これに対し、日本の対応は意図的に限定的だった。東京は平和と国際秩序に関する従来の表現を繰り返したものの、政治的関与は避けた。これは日本外交として珍しいことではない。しかし、地域で現実の危機が進行する局面において、抑制は中立と同義ではない。東南アジアで紛争が発生した際、距離を保ち続けることは、日本の「ルール重視」の姿勢が一貫したものなのか、それとも状況依存的なのかという疑問を招く。
本稿は、日本がカンボジア・タイ紛争に責任を負うべきだと主張するものではない。また、東京が他の大国に取って代わるべきだという議論でもない。より限定的で、しかし重要な問いはこうだ。日本の近隣で紛争が勃発したとき、存在よりも距離を選ぶなら、日本の地域的関連性はどうなるのか。
日本が大陸部東南アジアで築いてきた評価は、他の域外パートナーにはない歴史的資産に支えられている。1990年代初頭、日本はカンボジアにおける国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)を支援し、戦後復興への国際的後押しを主導した。その関与は強制的でも思想的でもなく、制度的で開発志向、かつ持続的だった。この姿勢は、日本を戦略的機会主義者ではなく、信頼できるパートナーとして位置づける評価を定着させた。同時に、湾岸戦争期の低調な役割の後、日本が経済力を外交的正当性へと転換しようとした再出発点でもあった。
この遺産が重要なのは、期待を形作っているからだ。ASEAN加盟国同士の間で暴力が再燃した場合、日本が軍事的に主導したり解決を押し付けたりすることは期待されていない。しかし、安定、ルール、人間の安全保障を強調する自国の外交言説に照らせば、政治的関与は期待されている。
実際、地域における関連性は壮大な外交よりも、時間に制約のある具体的課題への対応で試される。8月初旬以降、タイによるカンボジア兵18人の拘束が、この信頼性の空白を示してきた。拘束から4か月以上が経過しても、透明な法的・人道的解決は示されていない。これはまさに人道規範や紛争後の信頼醸成の領域であり、日本が長年、概念的主導権を主張してきた分野である。
東京は数十年にわたり、「人間の安全保障」を外交の中核に据え、開発援助の枠組みに深く組み込んできた。人間の尊厳の保護、暴力からの自由、紛争からの回復を重視するこの概念は、長期的開発だけで機能するものではない。急性の危機局面で外交的関与を行う根拠でもある。にもかかわらず、今回、人間の安全保障は目に見える外交的イニシアチブに結び付かなかった。日本は、公にも非公式にも、人道的解決の促進役として自らを位置づけていない。これは道義的失敗というより、日本が比較優位を発揮できた低リスクの機会を逸したことを意味する。公の圧力を伴わない静かな人道外交は、タイの主権やASEANの枠組みを損なうことなく、最低限の人道的自制を確立し得たはずだ。
規範面に加え、日本は十分に活用されていない構造的影響力も有する。タイは依然として日本にとって東南アジアで最重要の経済パートナーの一つであり、自動車、電子、産業サプライチェーンを中心に約5,000〜6,000社の日本企業が進出している。2025年だけでも、最初の8か月で対タイ投資は約718億バーツ(約20億米ドル)に達し、日本は主要な直接投資国である。一方、カンボジアでの投資規模は小さく、東京の経済的影響力が両国で非対称であることを示す。
この経済的影響力は人道的含意も持つ。日本の資本、技術、長期的産業関係に依存するタイに対し、東京は対立を伴わない影響経路を有する。安定と自制に結び付けた節度あるシグナリングであっても、空爆を含むエスカレーション抑制に寄与し、民間被害の低減につながり得る。
しかし、今回の紛争がもたらす人道的結果は、日本の原則適用に関する不都合な問いを突き付ける。2025年のカンボジア・タイ国境紛争における日本の「現実主義的選択性」は、地政学的配慮を人道的コストより優先したものに見える。500,000人を超えるカンボジア市民が避難を余儀なくされ、その多くが女性、子ども、高齢者であるにもかかわらず、日本の反応は抑制的だった。礼儀的な自制と対話の呼びかけ、限定的な人道支援、ASEAN仲介への支持はあったが、最重要の地域パートナーであるタイに対し、相当の経済・政治的影響力を用いた働きかけは行われなかった。他の文脈ではより強い批判や条件付けを行ってきたことを踏まえると、これは説得力のある説明が難しい。結果として、人間の安全保障は普遍的修辞でありながら、実践では条件付きであることが示された。
この選択的共感は、より深い現実を示す。日本の東南アジア外交は、中国との大国間競争の要請に、一般市民の福祉を従属させつつある。対中重視の大使人事、BRIに代替する経済選択肢の育成、カンボジアへの慎重な圧力は、利害の序列を物語る。中国の影響力に対抗する地政学的計算の中で、隣国の軍事行動がもたらす人道的苦難は後景に退いている。これは戦略的成熟ではなく、道義的便宜主義であり、日本が数十年かけて築いた「人間中心」の信頼を損ないかねない。
沈黙の長期化は、メコン地域における日本自身の投資基盤も損なう。民間インフラへの被害と空爆の継続は、日本が支援してきた南部経済回廊などの連結性と安定を蝕む。
日本の影響力は、立場を取らずに国際法を補強する道も提供する。安定、自制、法的メカニズムの尊重を経済協力の環境に結び付けることで、法に基づく紛争管理への回帰を静かに促せる。これは、日本が国際裁判を含むルールに基づく秩序を長年擁護してきた立場と整合的である。フィリピンの2016年仲裁判断を支持したように、政治的に不都合でも法の一貫性を示すことは、日本の信頼性を高める。台湾を巡る緊張が高まる中、こうした一貫性は国際的評価を支える。
現時点で、東京はこの法的枠組みを明確に打ち出していない。それは慎重さの表れかもしれないが、同時に、信頼が最も問われる瞬間に、日本の原則が十分に伝わっていないことを意味する。
日本が東南アジアを失ったわけではない。しかし、関連性は固定的ではなく、重要な局面での選択的関与によって再確認される。今回、日本は慎重さを選んだ。その選択は短期的リスクを避けた一方で、政治的空間を他者に譲った。
教訓は、米国や中国と危機外交を競うことではない。日本の比較優位は、静かな仲介、人道的促進、節度ある経済的シグナリング、国際法への一貫した支持にある。これらの手段は今も利用可能だ。東京がそれを行使するかどうかが、日本が今後も安定化の担い手として見られるのか、それとも善意の傍観者にとどまるのかを左右する。